ダウン症のこどもの誕生から成長への過程で、それぞれのドラマがあるよね。
このコーナーでは、わが子への思いの詰まった体験談を掲載します。
※文中の年齢などは、体験談が執筆された当時のものです。

下記の3篇はPDFでもご覧になれます
生死の境を越えて.pdf
②新たな生活・新たな夢.pdf
亮太ありがとう.pdf

生死の境を越えて     

 平成12年8月8日、我が家に待ち望んでいた娘、まみが誕生しました。
赤ちゃん誕生後、母の胸に抱えられるシーン…でも、うちの場合は少し様子が違っていました。
産声を上げることがなく、母の元からバタバタと連れていかれました。
気がつけば、NICUで人工呼吸器をつけられ、保育器の中で力なく寝ていました。
そして母との面会…生死の境を越えて、私達両親のもとへ生きて還って来てくれました。
父には医師から「覚悟するように」と言い渡されていたことを、後になって聞かされました。 

「抱きしめ、受け入れる」
赤ちゃんの顔を見たとたん、自らダウン症だと分かりました。出産直前に偶然見たドキュメンタリー番組で、ダウン症の子供の特集をしていました。これもお告げだったのかな?とその時に感じました。
妊娠中も高齢出産のため、医師から羊水検査も聞かれましたが「どうであれ、私は産みます」と断言しました。
しかし、目の前の現実を見たとき「受け入れなければ!」でも…「間違いであって欲しい!」と心が揺れ動いていました。
退院までの1週間、気持ちを書きとめ、その現実を少しずつ受け入れられるようになっていったことを思い出します。
まみの退院までの1カ月半、毎日病院に行き、朝から晩まで共に過ごしました。毎日まみを抱きしめ続けました。
そして、看護師さんたちにも支えられ、娘を愛おしいと思える母になれました。
そして何よりも、すべてを受け入れて「二人で育てて行こう」と言ってくれた優しいパパがいてくれたからこそ家族仲良く過ごせているのだと、いつも感謝しています。

「こころ豊かに」
3才3カ月でやっと歩き始めました。それまでは、いつになったら歩けるのだろうと、気の遠くなる思いで過ごしていました。
比べても仕方がないのに、同じダウン症の子供たちと比べては一人で焦っていました。
その時も沢山の方に出会い、支えられ、「いつかは歩けるようになるのだから、ふたりでゆったり過ごせる時に、楽しく心を育てなさい」と教えて頂きました。
それからは「心豊かに育てる」という事をいつも考えながらまみに接しようと、気持ちを切り替えることができました。

「夢を追って」
小さい頃は何をする時も、様子をみてから、自分でも大丈夫と思うものしか手を出さない、どちらかと言うとけん制型の娘でしたが、今では親が頭を抱え込むほど、何事にも手を挙げる積極的な人になってきました。
現在は小学校5年生。学校でも沢山の役割を与えられます。そんな委員を率先して立候補し、獲得しています。
集団登校の副班長で(人数が少ない学校なので)、班長がお休みの時は自信満々でみんなを率いて登校しています。危なっかしいのですが、母は後ろから冷や汗をかきながら見守っています。
親としては、できるだけ健常児と変わりなく成長して欲しいと思っているのです。しかしながら、現実は年を重ねるにつれ、知的な部分は明らかに開きがついてくるのも事実です。
今は、本人の力を信じて出来る限りのサポートをして、知的な部分は基より充分に心を育て、社会性を養ってあげたいと思います。人としての常識・ルール・思いやり・感謝・痛みのわかるやさしい心が育っていってくれればと思います。
決して勉強を投げてのではなく、ゆっくりでも本人の理解を深めることと、しっかりと習得することが、一番大事だと思っています。いくら数唱ができたとしても、数の理解がなされないと意味がないのです。大好きな勉強を好きなまま大きくなってもらいたいです。
甘やかすのではなく、無理やりにでもなく、まみの成長に応じた対応で、当たり前に出来るべきこときちんと理解できること、それらを必要に応じて教えていきたいと考えています。

新たな生活・新たな夢

 

美優、15才 支援学校・高等部1年生
平成8年1月5日、次女として誕生した娘。

美優が誕生したときには、私の人生に大きな転機があることなど想像もしていませんでした。
医師からの告知、7日目ぐらいだったかドクターから話しがあると両親そろって呼ばれました。
「お子様は障害をもって生まれました。ダウン症候群という障害です。」と・・・・・
ドクターはダウン症候群について丁寧にゆっくりと説明をしてくれたと思うが、先生の話が理解できない、何がどうなの?病院に並ぶ他の赤ちゃんと何も変わったことはない娘、ただ、だまったまま聞いていた。
でも、ドクターの最後に言ってくれた言葉だけは今もはっきりと覚えている。
「人は同じ様に生まれ、同じように死をむかえます。それと、人の人生には何があるかわからないです。障害をもった子の命は弱くてこの世に誕生してこない子が多い中、この娘は強い生命力をもって生まれてきました。この娘の命を大切にしてあげてほしい」と・・・。
でも、やっぱり告知されたこの日の夜は眠れずに、ただただ涙が止まらず、ベッドの上で泣きどうしでした。
看護婦さんが気にして何度も声を掛けにきてくれた。
夜通し泣きっぱなしのせいか少し心が軽くなりました。

こんな事を言った人がいました。
「朝の来ない夜はない」 良いこともいつまでも続かないように、悪いこともいつかは終わると。
泣いてても仕方がない、この子と毎日笑って楽しく生きていこうと思いました。

しかし、思うだけは簡単、なかなか気持ちの切り替えは正直すぐには出来なかったです。
出産から退院まで一ヶ月の病院生活、その間退院後の生活の準備に小児科のドクターがすごく関わってくれました。
ダウン症についての本をいただいたり、早期療育についての話など、何よりも嬉しかった事が、同じダウン症の女の子を育てているお母さんを紹介してもらった事でした。
3才?と思うほど小さな、小さな女の子をつれて病室に会いに来てくれたのです。
心臓に疾患があり、ダメかもと宣告されながらも2度にわたる大手術を受けたと聞きましたが、とても元気にはしゃぎまわり、お母さんから「病院では静かに」と叱られ、私の方を見て、照れながら笑った顔がとてもかわいかったことを覚えています。
お母さんも初めて会った人と思えないぐらい気さくでとても明るく、私は元気をいっぱいもらいました。その後も何度となく病室を訪ねてくれました。

入院中、中学一年の娘の生活も気になっていた私、やっとの退院、嬉しく家に戻ったのもつかの間で突然の高熱を出して又、入院となったのです。
それから就学までは、ずっと入退院の生活でしたがそれはそれなりにいい思い出かも・・・。

美優が生まれてからの15年間、いっぱいの人との出会いがあり、いっぱいの人達に助けられました。
まずは「子供の城」との出会い、ちょうど美優とお誕生日が同じ女の子をもつ滋賀県から療育に来ていた若いお母さんとの出会い、滋賀と大阪で少し遠距離だけどお互いの家に遊びに行く程仲良くなり、いまだに交流があります。

そしてクローバーの会との出会い。
クローバーの会ではダウン症の子供がありながら、お父さんお母さん達、みんな明るくて、元気(本当はいっぱい悩みを抱えたりするのに)でした。
この元気はどこから? きっと、一人じゃないと思えるからなんでしょうね。
この出会いがきっかけで、地域で私も「プチ翔の会」を立ち上げ、地域のダウン症の家族との出会いもありました。

保育園探しの時は、ダウン症である娘を引き受けてくれるのかと不安だったけど3ヶ所の相談と見学に行きました。
その一つ「ふたば保育園」との出会い。
美優に障害があることを話すと園長先生は「全ての子供は同じです。障害をもったお子さんをあずかるのは初めてですが、お母さんと一緒に頑張りますので安心してお子さんをあずけてください。」と言ってくれました。
その園長先生の言葉で何の迷いもなく入園させました。
チェックのスカートに白のブラウス、緑のベレー帽の制服姿の美優、“めっちゃ”かわいかった!事を思い出します。保育園には5年間通いました。病気ばかりで入退院の生活だった為、5年間の半分も通園できませんでしたが、その間は園長先生の言葉通り、園の先生が子供の城に一緒に足を運び、美優の療育を園でも取り組んでくれました。同じ園の子供やお母さん達も、皆が温かく美優に接してくれました。
いろんなエピソードはあったものの、美優にはいっぱいのお友達が出来ました。

その後、地域の小学校に入学した美優はとてもすてきな先生との出会いをしました。
6年間美優の障担(学年担任)として関わり、美優の持っている力を最大限に伸ばしてくれたし、母親の私にとっても人生の先輩として良いアドバイスをしてくれた先生でした。

美優が小学校に入学して間もない頃、私にも思っても見なかった出会いがあったのです。
それは一枚の求人チラシでした。
「障害者の為のお手伝いをしてくれませんか」という求人でした。何、何の仕事なの?と・・・
美優がいなければこんな求人、気にもしなかったことでしょう。
募集条件は、まず書類選考でした。履歴書と「自立」についてのレポート400字2枚の提出。
一つ引っかかったのが年齢でした。誕生日を迎えると完全にアウトの年齢だったが、ダメもとで郵送しました。
郵送はしたものの、文章は苦手、年齢もアウトで99%あきらめていたのに、なんと面接の返事をもらい、研修あとのレポート提出と最後まで残り、採用となったのです。
仕事は、障害をもった人達の就労支援でした。
全てが初めての事でドキドキでしたが、障害をもったその人にあった職場開拓から、障害者雇用をする上での企業への提案、職場内での支援(ジョブコーチ)など障害者の就労全般に関わりました。

この仕事では、施設・作業所へ通いながら「働きたい」と願う多くの障害者との出会い、それを支援する職員、家族、そして多くの障害者を雇用している企業、雇用したいが障害者にできる仕事があるのか?わからない企業、多くの企業との出会いがありました。
出会い支援をしていく中、どこも同じ悩み・課題を抱えている事を知りました。
なにか「生活」面での問題です。
就労支援をしていて働く場所が見つかっても生活面での問題を抱える障害者は定着せずやめてしまう、障害をもつ子供の家族が高齢化していくなかで家族が抱える悩み等は大きく、私は今、就労と生活の両方の支援をする仕事をしていますが、生活での悩みを抱えるのは障害者だけではなく私達も同じです。
全ての人が生きやすい、やさしい社会になればいいなと思います。
この仕事をしてきて、人が笑っているのを見るのが嬉しく、誰かが幸せになる事の手伝いする事が嬉しくて人が大好きである自分に気がつき、ずっとこの仕事を続けたいと思っています。

人生の中で誰でもいい出会いの一つぐらいあると思うけど、そんな一人になれたらいいなと・・・。
まだまだ、いろんなことにぶつかり大変な事はあると思う・・・。
そんな私を一番に応援してくれている美優。
美優との出会いがあったからこそ、出会った仕事。
その美優は、お母さんみたいな人の役に立つ仕事がしたいと言っています。
私と美優、二人三脚でこれからの夢に向かって歩いて行きたいなぁ~と。

 

亮太、ありがとう

  生まれて5日目、病院での沐浴指導を受けている時、亮太のペラペラな両足をなでながら ひょっとして歩くことができないかもしれないと思った。その途端、涙で亮太の足も何もかも見えなくなってしまった。5年後、亮太は園庭を、縄跳びをしながら走っていた。「不可能なことなんてない」とまで私は思った。両内反足・尖足、それが亮太の合併症だった。かかとは無く、明らかに元気な赤ちゃんの足ではなかった。生まれて1週間目からのギプス。1歳の時の手術。その後夜中も履き続けなくてはならなかった矯正靴。整形外科の医師の熱心な治療があったのはもちろんのことであるが、亮太自身の治療に対する忍耐強さと自分の力で動くことへの旺盛な好奇心には驚かされた。

 通い慣れた幼稚園から小学校へ。普通の子供なら小学校生活を夢と希望で待ち望み…しかし亮太には厳しい現実が突きつけられた。障害児クラスへの在籍要請。その説明は親として決して納得のいくものではなかった。そんな混沌とした状況の中、亮太のひとことが親として私たちの進むべき道を照らしてくれた。「みんなと一緒に小学校に行きたい。」とにかくみんなの中で過ごせるように、ただ一つそれが実現できるよう親としては本当に何度も学校と話し合いを重ねた。6年が経ち、その集大成のような6年生の学芸会での劇。6年生チームの一員として亮太がそこにいた。

 そして中学生。普通学級での生活はスムーズに確保できたが、片道30分以上の通学路など、親としての不安は尽きなかった。
 中学2年生の文化祭。クラスで劇をやることになり、亮太の役は「額」の中のモナリザ…。それでもみんなと一緒に舞台に立っているだけで嬉しかった。ラストシーン!暗転、突如「額」からモナリザ(亮太)が飛び出し舞台の中央で歌、「夜空のムコウ」の熱唱。その後、客席から「アンコール、アンコール」の声が。この時、亮太の「みんなと一緒に…」の言葉を大事にしてよかったと改めて思った。

  とにかく普通の社会の中で、できるだけ多くの人とコンタクトをとりながら生活することを心掛けて育ててきた。小さい頃から お習字、バイオリン、ピアノ、スイミング、英会話、ドラムとおけいこやレッスンを続けてきた「継続は力」とその言葉を信じつつ、ほとんどのおけいこを25歳の今も続けている。もちろん「モノ」になるなんて大それたことは考えていない。本人が続けることにより、よりhappyな時間を持てればいいし、レッスンやおけいこをすることにより社会の中でのコミュニケーションを続けていければいい、そう考えるばかりである。

亮太の25年を振り返った今、親子共に一番印象深いことは、クラーク高校2年の時のオーストラリア留学である。初めての親と離れての生活、それも8ヶ月間。オーストラリアでのお友達と過ごした時間、ホームステイ先でのマムとのあたたかい関係は、私たち家族のかけがえのない大切な宝物となった。
  生まれたばかりの亮太の足を見て、涙を流した時を今も忘れない。けれど、その足で園庭をなわとびで駆け回る亮太を見た時、親が子供の「不可能」を作ってはいけないと思った。その思いは8ヶ月間のオーストラリア留学でさらに確固たるものになった。
  しかしまだまだ余裕のない生活を続けているこの頃…。ある日の夕方、メールの着信音が鳴った。「あっ亮太から!何かあったかな?」ちょっと不安がよぎる。けれどメールには「今、舞子あたりを通っています。夕日がとってもきれいやで…」
  亮太、ありがとう。これからも素敵なメッセージを家族に送り続けてね。