自立ってなんだろう?ひとりで暮らすこと?自分の給料で生活できること?他人の手を借りないで生きていけること?
ダウン症児・者の親にとっては自分が死んだ後も、こどもが何不自由なく生きていける環境を整えたいよね。そのために、親が生きているうちに、ひとりでも生きていけるように何とかしなきゃと考えてる人が多いんじゃないだろうか?
「生活環境の変化に弱いので、早いうちにグループホームに入れて慣れておくべき」とか「ひとりでは身の回り全てのことができないので信頼して任すことができる人や施設と信頼関係を作っておく」とか、「お金の管理が不安なので成年後見人制度を勉強する」とか、中には「私はこどもより1日でも長く生きたい」って考える人だっている。
健常の人だって、誰の力も借りないで自分一人で生きていくって、すごく難しいことじゃないだろうか?老いて、体が動かなくなったときには信頼できる誰かまたは施設に頼りながら生きているんだ。
みんな、もがいているんだよね。いろんな言葉をヒントにしながら時には希望を持ち、壁を感じて苦しんだり‥。
でも、出来る限り生活力を持たせてあげられるように、楽しんで暮らしていけるように育てていきたいと思ってる。こどもが到達できるレベルは違うので一概には言えないけど、そのヒントは様々な考え方から得て行こう。

ダウン症児・者の就労と自立に向けて

布留川正博

(PDFでもご覧になれますダウン症児・者の就労と自立に向けて.pdf

 私は、現在32歳になるダウン症をもつ息子の父親です。今日も彼はお弁当をもって、近くのマクドナルドに出かけました。今日は日曜日なので、朝の10時から午後5時まで、途中で1時間の昼食休憩をはさみ、働きます。平日の勤務時間は10時30分から14時30分までです。週に5日間アルバイト店員として働いています。彼の趣味はいろいろありますが、コミックマンガやテレビ番組の雑誌などを買って読んだり、ニンテンドーDSでゲームをしたり、毎週1回近くのプールで約1km泳いだり、ダンスをしたり、バスケをしたり、カラオケをしたり、映画を見たりしています。生まれたときにはこのような生活が待っているとは思いませんでした。成人式を迎えることすら可能かどうか分からなかったわけですから。この32年間を振り返りながら、ダウン症児・者が就労と自立をするためにはどうしたらよいかを具体的に考えてみたいと思います。

A.言葉がまだでなくても本人の言いたいこと、意志を可能な限りゆっくりと聞いてあげる。
人間は他人とのかかわりのなかで成長していきます。ダウン症の子どもでも同じです。親や他人とのコミュニケーション手段のなかでも言語表現は非常に大事です。しかし、人間は言語だけでコミュニケートしているわけではありません。嬉しい時、悲しい時、悔しい時、それは顔の表情に現れます。また、何かを強く訴えたいとき、言葉が出なければ、ジェスチャーでもって何とか他人に分からせようとします。
私の息子・宗一が小学校3年生、4年生の時、私の仕事の関係でイギリスに住むことになりました。彼は地元のスペシャル・スクールに通うことになりました。英語は全くできません。どのようにクラスや学校の友達や先生方と意思疎通を図ったのでしょうか。最初のうちは全身を使って、いわゆるボディランゲージでもって、コミュニケートしていたのでないかと思います。もちろん先生方の配慮があったでしょう。そのうち英語を少しずつ学習し、基本的で重要な単語は習得していったと思われます。彼の存在を認めてくれる雰囲気が十分に形成されていましたし、毎日ウキウキとして学校に行きましたし、楽しそうな顔をして帰ってきました。友達になったクラスメートの誕生日に招かれましたし、逆に宗一の誕生日会にはたくさんの友達が来てくれました。重要なことは、自らの存在があり、まわりに他人の存在があり、自らの意思で他人と関わりをもとうとするかどうかです。
それでもやはり言葉は大事です。ある言語の専門家は、言語の表出にはそれの10倍以上の周りからの言語の受容過程があると言っています。つまり、周りからの言語を受け入れ、それを蓄積して、漸く発話につながるということです。そして、その発話は最初のうちまだ完成されたものではありません。何度も何度も繰り返すなかで完成していくものです。親が心掛けなければならないことは、まずゆっくりとお子さんに語りかけること、何度も何度も語りかけること、またお子さんが何か言おうとしたらそれにゆっくりと耳を澄ますこと、理解しようとすること、ここで焦ってなりません。そのあいだに親と子の愛情が生まれるのです。このようなことが日常的に行われているときっと何らかの言葉の表出、発話につながってくると確信しています。
彼はいまでもマクドナルドに行く途中あるいは帰り道でたくさんの人と出会ってコミュニケーションを楽しんでいます。そのなかには保育所、小学校、中学校、支援学校、明光ワークスのときの友達もいますが、まったく見知らぬおばさんやおじさんたちとも関係を形成しています。どうやってそんなことができるのか、不思議でなりません。私などにはできそうにない能力をもっています。

B.家族の人以外の第三者との関係を作っていく
人と人との関係はいうまでもなく家族内だけで閉じているわけではありません。むしろ成長していくにしたがって、この関係は家族外にどんどん広がっていきます。家族以外の第三者との関係を形成していくことが、自立につながっていくのではないでしょうか。まず親せきとのつきあいがありますし、親の友達との関係のなかで子どもは育っていきます。次に、保育所・幼稚園、小学校、中学校、高校など学校生活での友達や先生方やスタッフとの関係があります。最近ではガイドヘルパーさんとの関係もあるかもしれません。そしてダウン症の子どもにとって重要なのは、他のダウン症の子どもたちやその親との関係です。
 宗一は、クローバーの会で育ちました。いろんなイベントに参加して、他の親御さんから声をかけてもらい、自分もそれに反応しながら、いろんな経験を積んでいったと思われます。他のダウン症の子どもさんともいろんな触れ合いがありました。ヒップホップのダンスを一緒に踊っていますし、カラオケも多くの仲間と一緒だと盛り上がり方が違います。ゲームを一緒にしたりもします。ひとりでするより仲間とする方が楽しいようです。自分がダウン症であることが分かっているようで、今日は僕と同じ顔をした人と会ったとか、クローバーの会のだれそれと会ったとか、話してくれます。
 第三者との関係が重要だとつくづく思ったのは、明光ワークスに通い始めたころです。最初の職業訓練がクリーニングの作業で、毎日立ちっぱなしで、1ヶ月くらい経ったころ、足が痛くなって、身体がしんどくなってきました。おそらくそれだけではなく、不慣れな作業と緊張感で精神的にも不安定になっていたのかもしれません。私たちは心配しましたが、何ら対策が浮かびませんでした。しばらくして本人から、明光ワークスの前に通っていた豊中市の「みずほ園」の先生Hさんに会いたいという願いを聞きました。早速H先生に連絡をし、わが家に来ていただくことにしました。
 H先生は、わが家に来るとすぐに宗一の部屋でいろんな話をしてくれたようです。今どうしているの、何か大変なことがあるの、どんな作業をしているの、とかいろいろなことを宗一に語りかけてくれました。宗一も久しぶりに先生に会って、嬉しくそれに答えていました。1時間ばかりしてから夕食になりました。もちろん先生も一緒です。宗一は先生の横に座り、ビールで乾杯をしました。そのときの宗一の笑顔が忘れられません。私たちもアルコールが入って、先生にゆっくりと宗一のことを話しました。先生は「そうちゃんなら大丈夫だよ。きっとやっていけるよ。」と笑顔で言ってくれました。
 これ以降、宗一はあまり足の痛さや身体的な疲れのことを言わなくなりました。親だけではどうしても解決できないことがあるのです。

C.本人の興味のあることをどんどん押し広げていく
ダウン症の子どもはいろいろなことに興味をもちます。それを押し広げていくことが大事ではないかと思います。テレビの番組でもビデオでも、音楽でも、コミックでも、ゲームでも自分の好きなこと、興味のあることが山ほどあるものです。宗一は、いまでもテレビ番組で自分の好きなものはあらかじめ自分で予約・録画して、それをマクドナルドから帰ってきてから再生して見ています。実はわれわれ親が見たい番組と彼が見たい番組が異なっている場合が多く、そうせざるをえないのです。録画した好きな番組を何回も繰り返し見ています。天才テレビくんや志村けんの番組が好きです。Mステなどの歌番組も何回も見ています。ですから、カラオケなどに行っても、彼は最新の歌を選曲することができるわけです。一方私などは20年、30年、あるいは40年前に流行った歌をいつも歌っている次第です。まあこれはこれでいいのですが。
 ところで、宗一は比較的漢字をよく覚えています。これは私たちが熱心に漢字を教えた結果では全くなく、彼は小学生になったころから「コロコロコミック」というマンガ雑誌をずっと読んできた結果です。最初はいまもお世話になっているバアバアから買ってもらっていたのですが、今では自分の小遣いで決まった日に買ってきます。これを何回も繰り返し読んでいます。好きなものは好きなのです。親がものぐさでも子どもは漢字を覚えることができるのです。
 もうひとつの例は水泳です。彼は水泳教室に通ったことはないし、親がやかましく水泳を指導したこともありません。ただ夏の暑い日には近くのプールに連れていったくらいです。学年が上がるにしたがって水には慣れてきたのでしょう。私が泳いでいる姿も見ていたでしょう。中学1年生か2年生のころ、近くのプールで遊んでいたところ、クロールで息継ぎが急にできるようになったのです。息継ぎができると長く泳ぐことができます。今まではせいぜい5メートルくらいしか泳げなかったのですが、いっきょに10メートルとか15メートルとか泳げるようになったのです。びっくりしたのは親の方です。そしてまだ話の続きがあります。3年生になって、顧問の先生のお計らいで水泳部に入ることができました。その年の夏、中学の水泳大会がありました。それに選手として出場することができたのです。他の選手に混じってクロールを25メートル泳ぎました。一番遅かったけれども最後まで泳ぎました。リレーだったので他の選手に迷惑をかけたと思いますが、彼が泳ぎ切ったときには歓声がわきました。感動の涙です。何かのきっかけでできるようになることもあるのです。今でも毎週1回私とともにプールに行って約1km泳いでいます。それがリフレッシュになり、体力の維持にもつながっています。
 ダウン症の子どもはいろんなことが好きですし、いろんなことに興味をもっています。それを楽しみに変えて、継続していきましょう。人間は仕事だけではやっていけません。余暇や趣味が必要です。ダウン症の子どももそれはかわりません。仕事と余暇をうまくバランスさせることが大事だと思います。

D.家庭内ではできるだけ家事の分担をさせる
家事労働は仕事につながりますし、逆に仕事は家事労働につながります。たとえば、わが家では食器洗いやトイレや洗面台の掃除を宗一がしてくれます。あるいは、私たちが忙しくしているとき、病気のとき、自ら進んで食器洗いを手伝ってくれます。また、アイロンかけも少なくとも毎週1回はやっています。実は、食器洗いはマクドナルドでも仕事としてやっていることですし、アイロンかけは明光ワークスのときに指導を受けてきた技術のひとつです。家事労働は多岐にわたっています。それをこなすことによって就労につながります。あるいは自立生活のノウハウを習得していることになるのです。
 家庭のなかで家事の分担ができることは、家庭のなかでの彼の存在意義が確認できることにもなります。自分も親と同じように食器洗いができるのだという自信が生まれます。家事労働は女性だけのものではありません。家族全員が参加すべきものだと思います。
 彼にとっての次の課題は、料理を覚えることでしょう。カレーライスを作るときにじゃがいもの皮をむいてくれたり、ニンジンを切ってくれたりはしたことがあります。しかし、まだその程度です。マクドナルドでは月見バーガーの卵や焼いているようですので、目玉焼きくらいはできるのかもしれません。しかし、まだ本格的には料理には手を出していません。これから何とか時間を作って料理に指導をしていきたいと思っています。

この32年間、宗一は生活のワザを伸ばしてきたと思います。でもまだまだ課題は多いように思います。たまに私たちがなくなったときのことを想像します。ひとりでやっていけるのか、と思ったとき不安がよぎります。宗一に「そろそろひとり立ちしてグループホームにでも入る?」と聞くと、かたくなに拒否の姿勢をとります。今のところ家が一番いいのです。彼が欲しいものは何でも(?)そろっています。まあ当分はこの状態が続くのでしょう。でもいずれは・・・